100分de名著「法華経」について 7 – – テキスト 31ページから引用~




100分de名著「法華経」について 7


テキスト 31ページから引用~
そして釈尊は、衆生がブッダに到るための「乗り物」について説きます。 乗り物とは、それに乗れば目的地に到着させてくれるもの、つまり教えの譬えです。
「舎利弗よ。私はただ一つの乗り物(一乗)、すなわちブッダに到る乗り物(仏乗)について衆生に法を説くのだ。舎利弗よ。そのほかに何か第二、あるいは第三の乗り物が存在するのではない。(中略)ブッダ・世尊たちのすべてもまた、舎利弗よ、衆生にただ一つの乗り物、すなわち、一切知者の智慧(一切種智)を終着点とするブッダに到る乗り物について法を説いたのである」
これが、『法華経』の主張する「一仏乗」です。つまり、今までは声聞のための乗り物、独覚果に到る乗り物、菩薩のための乗り物が説かれていたが、私が本当に説きたいのはブッダに到るただ一つの乗り物だ、というわけです。
~引用終了
声聞乗
独覚乗 → 一仏乗
菩薩乗
これを中国天台では、開三顕一といいます。開とは、開除の略で、これまで執着していたことを開いて除くという意味ですから、固定概念を打ち破ること、払拭することです。顕とは、顕示の略で明確に示すことです。つまり、三乗に執着している固定概念を打ち破り、一仏乗を明確に示すのが、開三顕一です。
法華経が編集されていた当時には、声聞・独覚・菩薩という修行者がいたということなのでしょうが、これを現在の日本に当てはめた場合、声聞・独覚・菩薩とは何宗に当たるのでしょうか? または、どのような修行者のことを言うのでしょうか?
お教えください。
よろしくお願いします。



この問題の見方、その一。
四諦の法門の対象者が声聞、十二因縁の対象者が縁覚、般若波羅蜜の対象者が菩薩、と教科書的には言えるでしょう。
この表現に沿えば、現代において三乗は存在しませんよ。
あのニーチェの有名な言葉、「神は死んだ」がありますが、仏法もそれと同様だと思いますから。
つまり、仏とその教法(仏法)は死んだ、ということです。
だから、この点からして、三乗が存在し得ようがありません。
存在しているのは、六道輪廻の人間のみです。
菩薩を中心に検討してみましょう。
声聞・縁覚と菩薩の本質的な違いは、自行のみの二乗と自行化他の菩薩の違いです。
二乗が悟りの境界(涅槃・空あるいは菩提)の追求に専念するのみで、世俗への還帰がないという根本欠陥を見ないといけません。
「菩薩は、能所の寂滅する無分別智によって煩悩障を断じ、清浄世間智によって所知障を断ずるのである。
「所知」とは、菩薩が世間において知るべきすべての事柄である。
そのことについて、大乗荘厳経論の中に、「五明処に勤行せずして、聖者の上位にある菩薩は一切智者たりえない」と。
(中略)
すなわち、それら五つの仏教者としての知るべきすべての事柄が五明処であり、所知である。
それを勤求せずして、ただ能所の寂滅する空性真如というものを分別して、そこに停滞しようとする処に「小乗」が発生する。
小乗とは、所知(五明処)に練達せずにおり、従って所知に対する障碍がある。
すなわち、小乗には、出世間無分別智のみあって、後得清浄世間智が欠如しているのである。」
(山口益・横超慧日・安藤俊雄・舟橋一哉『仏教学序説』P196・P197)
まさに、「出世間無分別智のみあって、後得清浄世間智が欠如」と指摘される通りです。
このことは単に仏法に限ったことではありません。
神との出会いが人間におこるのは、彼が神とかかりあうためではなくて、彼がその出会いの意味をこの世界において確証するためである。
あらゆる啓示は召命であるとともに使命 〔送り出し〕 である。
だが人間はその意味を実現するかわりに、くり返し啓示者のもとへ引き返しをおこなって、世界とかかりあうかわりに神とかかりあおうとする。
(中略)
我に執着する人間が何かあるものを、たとえばある知覚や、ある好意を直接生きるかわりに、知覚する我や、好意の持ち主である我に目を向け、
そのために事の真実を逸してしまうのと同様に、神に執着する人間(執着する相手が神であるだけで前者と本質的にはことなっていない)も、
あたえられた賜物を充分はたらかせるかわりに、そのあたえ主に眼を向ける結果、このどちらをも逸してしまうのである。
(『ブーバー著作集第一巻』「我と汝」 P154・P155)
一神教の宗教においても、ただ専ら「神」とのみ関わることに専念することは、宗教的真実からの逸脱を招くのですよ。
だから、一神教であれ、仏法であれ、それらを横断して、それらの宗教の最高境界への固執は誤りなのです。
それが、「神」であれ「神聖な心境」であれ、「空・涅槃・悟り・菩提」であれです。
真の菩提心あるいは道心とは、宗派の如何を問わず下記のように要約されるでしょう。
「菩提心をおこすといふは、おのれいまだわたらざるさきに、一切衆生をわたさんと発願しいとなむなり。
そのかたちいやしといふとも、この心をおこせば、すでに、一切衆生の導師なり。
この心、もとよりあるにあらず、
いまあらたに?起(くつき)するにあらず。
一にあらず、多にあらず。
自然(じねん)にあらず、凝然にあらず。
(中略)
自性にあらず、他性にあらず。 共性にあらず、無因性にあらず。
しかあれども、感応道交するところに、発菩提心するなり。
諸仏菩薩の所授にあらず、みづからが所能にあらず、感応道交するに発心するゆゑに、自然(じねん)にあらず。
(中略)
おほよそ菩提心は、いかヾして一切衆生をして菩提心をおこさしめ、仏道に引導せましと、ひまなく三業にいとなむなり。
(道元『正法眼蔵(四)』「十二巻正法眼蔵第四 発菩提心」 P177・P178)
でも、悲しいかな、現代日本(もちろん他国も同じでしょう)に、このような菩提心の持ち主はいないでしょう。
菩薩はいなくとも、自行という自利に執着した者である声聞・縁覚はいるか、否か?
声聞・縁覚というのは、人に抜きんでて宗教的資質の優れたタイプであるわけです。
そのようなタイプは、現代において生育不可能です。
人類の歴史は、産業革命以前と以後の二つしかない、と述べた識者がありました。
菩薩であれ、声聞であれ、縁覚であれ、それらの人々はすべて産業革命以前の古き良き時代のことなのです。
◆回答をありがとうございます。
識=ヴィジュニャーナ(vijn?na)
出世間無分別智=プラジュニャー(prajn?)
後得清浄世間智=ジュニャーナ(jn?na)
◆今日の世界で、生活圏・社会における生きた宗教として、仏法を広く正しく実践しているのは創価学会です。
南無妙法蓮華経の七文字の題目を唱えて妙法に帰依するのが声聞行であり縁覚行で、折伏によって妙法を大衆にも流布して受持させるのが菩薩行です。
御本尊を信じて勤行をして折伏をすると、誰でも仏になれるのです。
◆法華経は、1~2世紀頃の編纂だといわれます。編纂された場所は、はっきりとは分かっていませんが、インド北西部のガンダーラあたりだという説が有力です。法華経の序品や勧持品などで、仏教教団の様子が描かれていますが、それは、その当時(1~2世紀頃)の状況を綴っているといわれます。滅後五百年という言葉が法華経に出てきますが、これは、釈尊が亡くなられてから500年後のことであり、1~2世紀に当たります。その当時の仏教教団には、大きく分けて三タイプの修行者がいました。質問者さんがおっしゃるように、声聞・縁覚・菩薩です。
●声聞
=?r?vaka
=シュラーヴァカ
=聞く者
本来は、釈尊の説法を聞いて学ぶ者のことでした。在家・出家はなく、仏弟子であれば、声聞と呼ばれていました。大乗仏教の起こった頃は、男性の出家修行者のことを声聞と呼ぶようになり、女性の出家者を比丘尼、男性の在家を優婆塞、女性の在家を優婆夷と呼ぶようになっています。仏教教団の中に差別があったのです。
声聞たちは、釈尊のような最高の覚りを開ける人は極めて稀なので、そのことを目的にすることをあきらめて阿羅漢の境地を目指すようになりました。阿羅漢とは、意訳すれば「応供」なので、「供養をされるのに相応しい者」ということです。本来、阿羅漢とは、仏陀の尊称の一つだったのですが、それを格下げして、「聖者」という意味で使うようになったようです。
そして、声聞は阿羅漢を目指すけれど、比丘尼、優婆塞、優婆夷は、阿羅漢には成れないと差別しました。このような差別は、釈尊の仏教にはありませんでしたので、そのことに反発して起こったのが大乗仏教です。
●独覚(縁覚)
=pratyeka-buddha
=プラティエーカ・ブッダ
=独自に覚った者
師の教えに従って覚りを得たのではなく、独りで山奥に籠り、独りで覚りを開いた者のことです。出家者は、家や家族や物・地位・身分などを捨てて出家し、僧伽というグループに加わって共に修行をしました。やがて、仏道を修める者は覚りを求めて、独りで山に入り、独りで修行をしました。
釈尊の時代には、バラモンやシャモンたちが山に籠って修行することが知られていました。聖仙(リシ)と呼ばれる者の多くは、人里離れたところに住んでいたといいます。
法華経が編纂された時代にも縁覚(独覚)は存在したのでしょうが、はっきりとした記述はありません。法華経には、声聞や菩薩の名は挙げられていますが、縁覚の名は一つもないし、縁覚の行についても薬草喩品後半などで少し説かれているくらいです。縁覚の覚り(辟支仏)は、個の覚りであって、他の人には説かないので釈尊の覚り(無上等正覚)よりも低いとされます。
●菩薩
=bodhisattva-
=ボーディサットヴァ
=覚りを求める者
大乗仏教以前、菩薩とは、「覚ることが決定した者」のことでした。成仏する以前の釈尊や釈尊の次に成仏するといわれる弥勒菩薩などのように、限定した使われ方でした。大乗仏教になると「覚りを求める者」という意味に変わり、大乗仏教のリーダーたちのことを差す言葉になりました。
大乗仏教とは、人と共に成仏を目指す部派です。自他の覚りを求めるので、リーダーたちは自らを菩薩と呼んだのです。それまでの菩薩の意味ではないことを強調して、「菩薩摩訶薩」ともいいます。摩訶薩とは、「大いなる人」という意味ですが、大乗の人という意味もあります。
成仏を目指すのであれば、出家・在家・男・女・身分などは無関係に菩薩といいます。しかし、声聞は阿羅漢を目指し、独覚は辟支仏を目指していますので、成仏を目的としていませんから、菩薩とはいえません。大乗のリーダーたちは、声聞・縁覚が、劣った道を選んでいることを非難し、小乗仏教と蔑称で呼びました。小乗と呼ばれた説一切有部などの部派は、はじめは無視していましたが、次々に経典(般若経・維摩経など)を作り、説一切有部の論説に異論を唱えるので、小乗と大乗との論争が始まりました。
仏教徒ですから、戒律によって暴力は禁じられています。よって、暴力による対決ではなく対論による対決をしました。説一切有部は、三世実有・法体恒有を説き、大乗の菩薩たちは「一切法空」を説いて、自分たちの仏教解釈こそが正しいことを証明しようとしました。しかし、「空」は難解なので、大乗の菩薩であっても納得できておらず、深く理解されたのは龍樹が登場してからです。
●平等思想
大乗仏教徒(般若派)と説一切有部との争いが続く中で起こったのが法華派です。法華派は、「一切法空」であれば、「一切無執着」(一切無著)なので、「一切無分別」であると説きました。空ならば、対象を認識することはできません。認識できないのであれば、執着の対象にはなりません。執着しないのであれば、これとあれというような差別・区別はできませんので無分別です。
無分別ならば、出家・在家・男・女・身分などで人を分けることはできないし、声聞・縁覚・菩薩という差別・区別もありません。一切平等です。一切平等であれば、争う対象がいませんから無諍です。争う心は起こりません。説一切有部にしろ、般若派にしろ、「空故に無諍」という大事な教えを忘れていますので、法華派は、法華経を編纂して「三乗を説くのは、一仏乗へと導くためである」ということを仏教界に伝えました。
●現代の三乗とは宗派の違いのこと
法華経が編纂された時代には、声聞・縁覚・菩薩という区別があり、争いがあったために、法華経では、修行者たちの三乗への執着を破って一仏乗を説いたという設定です。このような教えは、初期仏教時代にはありません。すべての仏弟子を声聞と呼んで平等思想を説いていたのですから、三乗という区別自体がありませんでした。また、菩薩という言葉は釈尊が亡くなられてから作られた言葉ですので、釈尊の説法に菩薩という言葉はなかったでしょう。
しかし、釈尊は、「人は生まれによって聖者になるのではない。行為によって聖者になる。人は生まれによって卑しい者になるのではない。行為によって卑しい者になる」と説いていますから、この説をもとにして、「一切衆生は行為によって、成仏にいたる」(皆成仏道)という法華思想が説かれたのでしょう。出家・在家・男・女・身分・声聞・縁覚・菩薩という現象としての差別相の奥の真実を観ることが、成仏の道でもあります。
1~2世紀のインドの仏教界と現在の日本の仏教界とでは、大きな違いがありますから、声聞・縁覚・菩薩に合致する修行スタイルはありません。第一に日本には、出家という言葉はあっても、本来の出家をしている修行者はほとんどいません。出家とは、家・家族・物・身分・職業などを捨てて、戒律を守り、教えを学び、禅定によって智慧を得る道を選んだ者のことです。僧侶という職業に就いたことを出家というのではありません。出家者がいないし、出家の意味が歪んでいますので、声聞・縁覚という存在はいないでしょう。
また、菩提心を持っている修行者を菩薩と言うのですから、菩薩の存在も数少ないように思えます。菩提心とは成仏を目指す心のことですが、成仏の意味を知らなければ、成仏を目指すことができません。日本の仏教界で真剣に成仏を目指している人はそんなに多いとは思えません。よって、出家者(声聞・縁覚)もいないし、菩提心を起こした者(菩薩)もいませんので、三乗という概念が無いように思えます。
三乗を現代風に読むとすれば、宗派の違いでしょう。日本には、浄土系・日蓮系・禅系・真言系などの多くの宗派があり、多くの教団があります。それらの違いにこだわって、自宗だけが正しくて、他宗は誤りだと謗ったり、他宗の悪口をいうのであれば、三乗の違いにこだわった人たちと同じです。修行方法は違っても、すべての道は成仏に通じると知るのであれば一乗です。
◆日蓮正宗信徒の者です。
声聞・縁覚・菩薩は、仏様と合わせて、『四聖』と呼ばれる仏教徒・僧俗を指します。
これは、
『六道輪廻』の『六道』の上に位置する衆生で、お釈迦様が仏教を説かれて発展した科学文明の世界では、この「六道」と「四聖」を合わせて、『十界』と呼び、一人の人間の中に存在する、命の状態を現しています。
「六道」
地獄ー苦しみ
餓鬼ー飢え
畜生ー本能
修羅ー怒り
人ー平静
天ー喜び
『四聖』
声聞ー学習
縁覚ー発見
菩薩ー利他
仏ー成仏
ですので、
『四聖』を、
個別の宗教や信者に限定する事は出来ません。


コメント