近衛はな

【写真付】以下の漢詩の意味を教えてください。 「酷吏去来秋気清、鶏林城畔逐涼...

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【写真付】以下の漢詩の意味を教えてください。 「酷吏去来秋気清、鶏林城畔逐涼...

以下の漢詩の意味を教えてください。 「酷吏去来秋気清、鶏林城畔逐涼...

以下の漢詩の意味を教えてください。 「酷吏去来秋気清、鶏林城畔逐涼行、須比蘇武歳寒操、応疑真卿身後名、欲告不言遺子訓、雖離難忘旧朋盟、胡天紅葉凋零日、遥拝雲房霜剣横」
また、
末句は、従来一般的に「遥かに拝せん雲房に霜剣の横たわるを」と、雲房(皇居)に近衛兵の銃剣が霜と光るさまを遥かに拝む。つまり朝鮮国で暴殺された使節西郷が草葉の陰から問罪の出兵を見守ると解釈されてきたが、文理解釈に無理がある。
と言われているらしいのですが、文理解釈に無理があるのでしょうか?

アンサー

応答が長く見にくくなったので、一旦消して、再回答します。
最初の回答
西郷南州作 で「蒙使朝鮮國之命」(朝鮮国に使いするの命を蒙る)という題の詩ですね。
酷吏去来秋気清、 酷吏(こくり)去り来たりて秋気(しゅうき)清く
鶏林城畔逐涼行。 鶏林(けいりん)城畔(じょうはん) 涼(りょう)を逐(お)いて行く
須比蘇武歳寒操、 須(すべか)らく比すべし蘇武(そぶ)歳寒(さいかん)の操(みさお)
応疑真卿身後名。 応(まさ)に疑(ぎ)すべし、真卿(しんけい)身後(しんご)の名
欲告不言遺子訓、 告(つ)げんと欲して言わず遺子(いし)の訓(くん)
雖離難忘旧朋盟。 離(はな)るると雖(いえど(も)忘れ難(が)たし旧朋(きゅうほう)の盟(めい)
胡天紅葉凋零日、 胡天(こてん)の紅葉(こうよう)零日(れいじつ)に凋(しぼ)み
遥拝雲房霜剣横。 遥(はるか)に雲房(うんぼう)を拝して霜剣(そうけん)を横(よこた)う
と読み下して、当時の状況や故事を調べないと訳が難しいと思って、顔真卿を調べたら、たまたま、この詩の訳が載っていましたので省略。
引用
酷しい夏の暑さも過ぎ去って、秋の気配が涼やかにただようようになった。
このたび朝鮮の都までは、涼しさを追いかけての旅だ。
国の使者としては、いかに困難にあっても屈することのなかった漢の蘇武に、また、死をもって大義を顕した唐の顔真卿にみならわねばならない。
子どもたちに言い残しておきたいことは、なくもないが、もはや言うまい。
遠く離れ去るとはいえ、旧友諸君との交誼は忘れがたい。
異国の空の下、紅く色づいた木々も葉を散らす頃、傍らには白くひかる鋭利な剣を横たえて、私は遠く祖国の宮城を遥拝していることだろう。
鶏林は朝鮮のこと
蘇武の故事は、李陵と対比されて有名 リンクが張れないので、ウィキで検索してください。
第八句を「つまり朝鮮国で暴殺された使節西郷が草葉の陰から問罪の出兵を見守る」と解するのは、無理だと思います。そんなことはどこにも書いてありません。西郷が忙殺されたことについても何の示唆もありません。
むしろ、「謀殺されることになって、剣を持って、遠く祖国の宮城を遥拝して、戦うつもりでいる。」と解釈するのが自然であると思います。
遥(はるか)に雲房(うんぼう)を拝すれば霜剣(そうけん)横(よこた)わる
と読めないこともありませんが、雲房を拝するのは西郷であり、殺された西郷の魂と解するのには無理があり、かつ、「霜剣横わる」ですから、剣は地上に置かれており、出兵の様子ではないですね。
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質問者様の返信1
明快な回答ありがとうございます。
顔真卿と西郷隆盛は書いているわけですが、顔真卿は調べてみると忠臣として有名で、大義を以て死んだ人のようです。
この句では西郷は、朝鮮へ赴き暴殺される自分(西郷はこの当時朝鮮の無礼があり、討つ道理があるが天下の人はそれを知らないので、それを糺すために使節を派遣し、殺されることで、天下の人は討つべき道理を知るだろうと考えていたようです)と重ね合わせていたのでしょうか。
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私の返信1
一級資料を読んでいないので分かりませんが、ウィキその他の情報によると、そもそも、西郷は、自分が殺されるからそれを口実にして開戦するというような考えで朝鮮に行こうとしていたというのは、俗説であり、むしろ、即時出兵派を押さえ、自分のような大物が行けば交渉が成り立つ、成り立たなかったら、それから出兵しても遅くはないという考えであったようです。もちろん、最悪の場合、現地で殺されることも覚悟していたでしょうが。
顔真卿は、大義を以て死んだようですが、蘇武の方は生きながらえて、最後には漢に帰っています。だから、あくまで忠節を以て使節の役目を果たし、万一死んだとしても、顔真卿のように名は残るので本望であるということで、尾聯はそのような場合を想定しているのでしょう。
これとは異なりますが、すんなりと、「遥に雲房を拝して霜剣を横う」と読んで、ブログもそうなっていたので気にしなかったのですが、英語の目的語に当たるものを動詞の前に置くことはきわめて稀なので、「遥(はるか)に雲房(うんぼう)を拝すれば霜剣(そうけん)横(よこた)わる」の方が、読み下しとしては相応しいかもしれません。(「遥かに拝せん雲房に霜剣の横たわるを」でも意味は殆ど同じですが、「四文字+三文字」の原則(これも例外あり)に反するので、そう読みたくありません。)
この点、再検討しますので2~3日余裕を下さい。
いずれにしろ、上記のような西郷の気持ちを考えると、自分が殺されてまもなく、出兵がされているということではないような気がします。
なお、「酷吏去来」ですが、「酷吏」は普通非情な官吏を意味しますが、大暑という意味があるのでこうした意味、「去来」は普通は行ったり来たりですが、過ぎ去るという意味もあるのでこの意味。
起句の読み下しの「去り来たりて」は「去来(きょらい)して」に訂正します。
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質問者様の返信2
当時の西郷を知る人々は西郷の真意は自分が行って死に、其の後に出兵の大義が出来るというものだったと語っております。
事実、西郷は朝鮮における軍事作戦を板垣退助、伊地知正治、副島種臣らと検討しており、西郷は「自分は軍事は得意ではないが、死ぬことぐらいならできるから、朝鮮に大使として赴き其の任務を全うしたい。軍事の事は板垣さん、伊地知さんに一任すれば心配に足りない」と語っておりますし、西郷の側近中には「今度こそ国のために死んでくれ」と言う人もあり、西郷も側近に対し「おいが死んだらやれ」と常に言っていたと語る人もいます。
これを機会に陸軍内部の改革をするつもりだったとか、士族の不満のはけ口にするためだったとか、西郷自身が死に場所を探していたとか色々言われています。
また、西郷さんはある土佐人が「自分も朝鮮へ連れて行ってくれ」と言った事に対し、側近の別府晋介(朝鮮へ同行するはずだった)へ向けて「土佐人も一人死なせておけば跡がよろしかろう」といった主旨の事を書いています。
西郷さんはたびたび死の事を口にしており、それも受動的ではなくて能動的なんですよね。板垣退助に対しては「あいつは無理に死を急いだのだという説が、あとになれば必ずおこってくるにきまっている。つまり、このような説を立てて戦を逃れる策をめぐらす動きが必ずおこってくるわけから、貴兄は決してこの動きをなされないように、いまからお願いしておく。」といった主旨の手紙を書いています。
こういうのを見ていると、西郷さんが朝鮮相手に交渉できると思っていたとはとても思えないんですよね。。。
再検討されるとの事、了解しました。返信お待ちしております。
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以下が、今回の回答です。
実は、この詩を読んだとき、「偽作ではないか」と疑いました。詩題に「朝鮮国に使いするの命を蒙る」とありますが、西郷に対してこうした勅命は下っておりません。また、先頭のさなかであっても軍使は殺さないのが掟であり、この掟を破った例は特に記憶されています。よって、談判破裂しても、西郷が殺されるはずがないということで、とりあえず日本史のカテに質問を入れましたら、思いがけない収穫がありました。
回答者は、「大西郷全集」の記載をもとに、「(西郷は)岩倉具視帰朝後に再協議する事を前提に勅許が降りそれが西郷に伝達された事をもって、「遣韓大使の内命が降った」と解釈しているようです。」と言われ、問題の部分は「遥かに雲房を拝すれば霜剣横はる」と訓読されていると言われています。そこで、これを元に再検索すると、以下のブログを始め、いくつかがヒットしました。
が見つかりました。
しかしながら、西郷南州の詩について一番正確なのは、西郷南州研修会が発行している「西郷南州漢詩集」で、前に、鹿児島県立図書館から取り寄せて読んだことがありますが、昨日は休みで、本日連絡がとれました。
電話ですので、多少の不正確さはありますが、問題の部分は、「遥に雲房を拝して霜剣を横う」と訓読されており「(会談を前にして)鋭い剣を携え、遙か彼方の宮城を拝し、事の成就を決意しよう。」と訳されていると言うことです。
このように、二つの読み方があり、どちらが正しいかは分かりません。とにかく、歴史の客観的事実として実現できたかはともあろうと、西郷が死ぬ気であり、それをきっかけに開戦しようという意思を持っていたことは確かなようです。
ただ、「横」には、「満ちあふれる」という読み方がありますが、これは、水や霧、「気」などが満ちあふれることであり、「山南山北淡煙横」「豪気堂堂横対空」のような用例しかなく、「近衛兵の銃先に露と光る銃剣が林の如く連り立っている」というような用例にはそぐわない物を感じます。これが、文理的に成り立たないといわれている理由だと所以だと思います。
幸いにして、本日は図書館に行く用がありますので、「横」の用例について調べてみますが、回答は、夕方以降になります。
この他の部分は、どれも大同小異であり、「胡天紅葉凋零日、遥拝雲房霜剣横。」は、朝鮮に行った後の出来事を想像していることは間違いありません。
◆「西郷隆盛研修会」でなく、「西郷隆盛顕彰会」でしたね。タイプミス
図書館で『大漢和辞典』を調べましたが、やはり、「銃剣」のようなものが、満つるという意味は無いようですし、「剣」はそれだけでは銃剣を意味することはありません。これらの点が、文理解釈上無理があると言われている理由だと思います。
その点、西郷隆盛顕彰会の方が自然だと思いますが、これは私の考え。西郷隆盛自身が説明しているならともかく、「鑑賞」の問題ですから、「大西郷全集」の解釈に従ったって、自由です。自分が好きな方を選べばよく、別の解釈もあることを知れば良いと思います。
いずれにしろ、西郷の決死の覚悟を表した、格調の高い律詩であり、顔真卿や蘇武の故事を引用するなど、教養の程度も分かります。
勤王の志士の下っ端や、明治以後の軍人で、吉川浩二郎先生から「粗笨な豪語」と酷評されたような物とは違います。
◆単なる歴史好きの素人であり、漢詩については全く疎い自覚がある者ですが、偶々他の質問でこの詩に興味を持ったので、何かのご参考になれば、と思い回答します。
文理解釈と言うと、法律用語のgrammatical interpretationしか思い浮かびませんが、漢詩でも『語順などの通常の文法に従って解釈すべき』と言う意味なのでしょうか…
法律用語から離れて「文理」というだけであれば、『文章の筋道。文脈。』という意味になるのは、国語辞典にも書いてある通りです。
仮に「通常の文法に従って解釈すべき」という意味だとすると、『霜剣横』は中国語の語順としては『鋭利な剣が横たわっている』と言う意味に解釈するのが自然であって、実際に(例えば)『遥かに拝せん雲房に霜剣の横たわるを』と言う訓読もその様に読んでいるおでしょう。
その一方で、他の方の回答にもあるように、『霜剣横』ではなく『横霜剣』であるかの様な、つまり、『霜剣を横たう』みたいな訓読もあるようです。
例えば、松尾義弘って学者(元山口大学人文教育学部教授)は『日中 漢字・漢語 漢詩・漢文論』と言うオンライン出版(22世紀アート・2015/12/10)で、押韻の関係から西郷は、『横霜剣』と言う意味を意図的に『霜剣横』と言う語順にしている、と説明しています。
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「除夜」詩にもあるように(横剣/剣を横たえる)、本来、「横霜剣」とすべきところを押韻と平仄の関係で転倒させたものである。従って元に戻して「霜剣を横たう」と読まねばならない。
ところで、ここでの「横」は、単に使わない「剣を腰に差す」というほどの意味なのか、それとも今まで抜身にしていた「刀を鞘に収めて傍に置く」という意味なのか定かでない。「除夜」の用語との整合性から言えば前者であるが、交渉が難航し場合によっては刀をふりかざして強談判に及ぶようなケースを想定し、事成らずして従容として死に臨むという意味に解するとすれば後者となろう。
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(同書P111からの引用)
押韻の点では、確かに盟mengと横hengは良い感じですが、剣jianだと合わないです。(ただ「最初から“霜剣横”という意味で西郷は考えていた」という解釈じゃ何故よくないのか、は本では説明されておらず、単に結論だけがあるだけです)
この詩が書かれた時点では西郷の「将来の想像画像」だった、「胡天」=朝鮮(胡は、元は西北方の異民族を指す言葉)にいる時の自分の状況を、詩の最後の部分で詠んだのでしょうが、“霜剣横”であれば、地上かどうかはともかく「冷たく光る(=鋭利な)剣が横になっている」という状況のはずで、それが皇居の光景かひょっとしたら朝鮮にいる西郷の近くかはともかく、「なんでその想像画像をわざわざ詩に入れたのか」と言う点は、私個人はピンとは来ません。が、「ピンと来ないから、霜剣横ではなく横霜剣と解釈すべき」なんて事が漢詩の解釈で通用するのか私にはわかりませんし、ピンと来ない事が「霜剣横ではなく横霜剣と解釈すべき」(=押韻の関係で字順を変えたはず)と考える根拠にされているのか&(一般論として)根拠に成り得るのか、もわかりません。
要するに、このどちらが正しいかは私にはわからんのですが、「どちらかを採るかによって、最後の部分の意味の解釈が変わってくる」のは間違いないですね。
そして、漢詩での文理解釈が法律用語と同じ様な意味なら、むしろ原文通り「霜剣横」のまま読め、の方がどっちかというと良い様な気がしますが、仮に「横霜剣にした上で読め」って見解を採るなら、「遥かに拝せん雲房に霜剣の横たわるを」という訓読、「雲房(皇居)に近衛兵の銃剣が霜と光るさまを遥かに拝む」という解釈は間違い、って事にはなると思います。
松尾義弘の通釈をご参考までに紹介しておきます。(P109~111から抽出)
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うだるような暑さが行きつ戻りつしているうちに、ようやくすがすがしい秋の気配が漂うようになった。
このような時期に、私は朝鮮国へ開国交渉使節として赴き、京城郊外を涼みながら歩きたいと思う。
私の忠節心をぜひ酷寒の地で飢餓に耐えて使命を守った蘇武の節操と比べてもらいたいものだ。
また、逆臣に謀殺されたが、のち名誉回復した顔真卿のように、私も忠義の臣として名を後世に残したいものだ。
遺児となるかも知れない子らに一言言い残しておこうと思ったがやめにした。
これでお別れとなってしまったとしても旧友との盟約は忘れるものではない。
朝鮮の山々の紅葉が凋み落ちる頃、
外交交渉が不成功の暁には宮城を遙拝しつゝ静かに利剣を傍らに置きたいと思う。
~~
(更にご参考)
霜剣横のままで読んで、前とのつながりからそれを『近衛兵の剣が横たわっている』と解釈し、更にそれを『朝鮮国で暴殺された使節西郷が草葉の陰から問罪の出兵を見守る』って意味まで読み取るのは、西郷の頭の中野イメージを勝手に想像し過ぎである、と言うのならわかります。それはこの詩《そのもの》からはわかりませんからね。
ただ、それは「文理解釈からして無理」というより「文理解釈の範疇を超えている」(想像のし過ぎ)というべき、って気はします。
また、それを言うならば、先ほど挙げた松尾義弘の通釈の中にも、例えば遺子を『遺児《となるかも知れない》子ら』とかは、「文理解釈」の範疇を超えている気はします。
ただ、ご質問者は既に理解されていると思いますが、蘇武は辛うじて生きて帰って来たとは言え、『応疑真卿身後名』は、顔真卿が死後に名を高めたのにならおう、って意味ですし、『欲告不言遺子訓』も、遺す子に話をしなかった、って意味ですから、西郷が強く死を意識していた、って事は、この詩そのものからしても否定出来ない、とは思います。顔真卿を挙げた上で『身後名』とまで言っているのですからね。
因みに、松尾義弘も…
~~
西郷さんの遣韓使願望論は猪飼隆明氏(前記書)の言う通り、多分に「大義名分作り」の側面を持っていたことは否定できない。その証拠には、3・4句は一種のスケープゴート的発想の論であり、勝部真長氏の言う(『西郷隆盛』PHP文庫)西郷さん性来の「死願望(デス・デザイア)」と相俟って、現実性の薄い一点突破(ここでも形を変えた「チェスト行け!」精神の発露を見る)傾向を濃厚に持っていたと言えるのではないか。
但し、尾連を味読する限り、西郷さんはあわよくば戦争を回避し、平和裡のうちに日韓問題を解決したいという一樓の望みも完全には捨て去ってはいなかったのかも知れない。歴史的にも征韓論が大勢を占める中で、談判が決裂し自分を捨て石にして開戦に導こうとしたか、それとも何らかの糸口をみつけて将来の展望を開こうとしたか、遣韓使節の胸の内はこの「横」の字の中に秘められていたと言えようか。
~~
(同書P111)
と書いています。
「尾連を味読する限り、西郷さんはあわよくば戦争を回避し、平和裡のうちに日韓問題を解決したいという一樓の望みも完全には捨て去ってはいなかったのかも知れない。」という部分は、何でそう思えるのか私にはよくわかりません。漢詩自体にはそんな事は書かれていません。蘇武を挙げている事から「100%間違いなく自分は殺される」と考えていた訳ではなかろう、ぐらいならまだわかりますが…。
万が一、自分の通釈の『外交交渉が不成功の暁には』というところに引き摺られているのなら、それこそ「想像のし過ぎ」のように、私には思えます。この詩が書かれたのは、明治六年八月十七日から九月十三日までの間であるのは間違いなく、西郷のイメージする「胡天紅葉凋零日」は結構先の事でしょうから、「外交交渉が不成功に終わった時点」を想定するのは別におかしくないでしょう。が、「外交交渉が不成功に終わった時点」を西郷がイメージしていたからといって、それが「平和裡のうちに日韓問題を解決したいという一樓の望み」を西郷が持っていた事の根拠にならないのは言うまでもありません。自分の予想通り&期待通りの「外交交渉が不成功に終わった時点」だったのかも知れませんからね。
漢詩の解釈とは別にして、西郷が「朝鮮に行ったら《100%》自分は殺される」と思っていたかどうか、それは誰も断言は出来ません。例えばの話、十中八九自分は朝鮮で殺されるだろう(100%ではない)と思っていなきゃ、板垣退助宛の明治六年八月十七日付け書簡で「使節被差向候へば(中略)使節を暴殺に及候儀は、決て相違無之事候」と書くはずがない、と迄は言えませんから。
歴史の議論では「100%と十中八九の区別は困難」というのは珍しくはないです。
ただ、この漢詩が征韓論と遣韓論のどちらとよく整合するか、といったら、そりゃ征韓論であるのは、誰が読んでも明らかでしょう。西郷が「朝鮮に赴いて平和的に外交問題を解決する」事を目的として使節になろうとしていたのなら、蘇武や顔真卿を引き合いに出すはずがありません。
遣韓論からこの漢詩を解釈しようとする人がいたら、そりゃ一般的な意味での「文理」に全く反します。
ついでに言えば、西郷大全集第三巻ではP1104で無題の漢詩として載っていますが、「辞闕」と言う題で紹介される事の多い、西郷が明治六年の政変で下野する際に詠んだ(とされる)漢詩は、↓のようなものです。
辞職する際に、
雪羞論戦略
忘義唱和平
秦檜多遺類
武公難再生
と詠んでいたこの詩を真作と考えるなら、義を忘れて和平を唱える者達を、南宋の宰相で金と和平し後世に売国奴の代名詞にもなった秦檜に擬え、自らを対金主戦派で秦檜に殺された武公(岳飛)の側と表現している西郷を「遣韓論者」と考えるのは、最早「文理解釈」以前の問題でしょうね。(漢詩が歴史の議論の根拠になるかは別にして…)
超長文失礼しました。


質問タグ:西郷,顔真卿,須比蘇武歳寒操,文理解釈,酷吏去来秋気清,欲告不言遺子訓,問罪

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