本山力

【必見】日蓮正宗では信者に配る本尊の『開眼』について ①開眼のない本尊は「...

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【必見】日蓮正宗では信者に配る本尊の『開眼』について ①開眼のない本尊は「...

日蓮正宗では信者に配る本尊の『開眼』について ①開眼のない本尊は「...

日蓮正宗では信者に配る本尊の『開眼』について
①開眼のない本尊は「魔」。
②本尊の開眼は法主しかできない。
③本尊の開眼は総本山大石寺の『丑寅勤行』のときに行う。 ④法主の“内証”は日蓮であり、「唯授一人」の“血脈”が流れている人なので唯一開眼を行う資格を有する。
としてきていますね。
それでこれを根拠に創価学会の本尊は「魔である」としています。
しかしここに来て“新説”が飛び出しています。それは
(⑤)法主の允可・指示があれば末寺の住職でも開眼できる。
(「允可」は許可のことで「いんか」と読むようです)
という、本カテにおける代表的な信者・清水大悟さんのものです。
この“新説”は合っていますか。ご教示をお願いします。
※私は清水大悟さんからBL化されていますので、直接お聴きすることはできません。

アンサー

ちょっと、話がズレますが・・・・
曹洞宗などでは、お墓の魂入れのことを開眼供養といいます。
確か読経後、墨汁を吸わせた筆で竿石に「一点」を書くようでした。
墨ですから、そのうち雨で流されるらしいです。
日蓮正宗のご本尊への『開眼』も、この竿石への魂入れという考え方と同じように思えます。
しかし、墓じまいをする時は、魂入れをした竿石から魂抜きをするようです。
いったい、ご本尊の魂抜きってどうするんでしょうね?
全て、法主が魂抜きをしてから処分しているのでしょうかね。(笑)
ところで、木絵二像開眼之事(四六八㌻)には「仏滅後は木画の二像あり是れ三十一相にして梵音声かけたり故に仏に非ず又心法かけたり(中略)木画の二像の仏の前に経を置けば三十二相具足するなり」とあります。
すなわち、木画の二像の前に経を置く時、経文の一字一字がすべて仏の梵音声となり、したがって三十二相を具足し開眼したことになる。またさらに、経文の文字は心法が色法とあらわれたものであるから、経を置くことによって色心の二法が備わるのである。
ここでいかなる経を置くかですが、「阿含経を置けば声聞とひとし……華厳・方等・般若の別円を置けば菩薩とひとし全く仏に非ず……三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつれば必ず純円の仏なり」(四六八㌻)とあるように、いま仏像の前に置かれる経は、正しく法華経、すなわち南無妙法蓮華経でなければならないのです。
「法華経の題目は一切経の神(たましい)・一切経の眼目なり、大日経等の一切経をば法華経にてこそ開眼供養すべき処に大日経等を以て一切の木画の仏を開眼し候へば日本国の一切の寺塔の仏像等・形は仏に似れども心は仏にあらず九界の衆生の心なり」(一〇六〇㌻)と述べられています。
上の御文に明らかなように、真実の開眼供養はあくまでも法華経による以外にないのです。
よって本尊問答抄(三六六㌻)に云く「木像画像の開眼供養は唯法華経にかぎるべし」と。
また観心本尊抄(二四六㌻)に云く「詮ずる所は一念三千の仏種に非ずんば有情の成仏・木画二像の本尊は有名無実なり」と。
また四条金吾釈迦仏供養事(一一四五㌻)には「此の画木(えもく)に魂魄(こんぱく)と申す神(たましい)を入るる事は法華経の力なり」と述べられています。
このように、あくまで三大秘法の南無妙法蓮華経をもって開眼する時、仏像全体が生身の仏と同じ働きをもつのであり、またこの原理が草木成仏にあたります。
ということで、いったい、どこにご本尊を開眼供養する必要があるのでしょうか?
日蓮正宗青年僧侶改革同盟では、以下のとおり述べています。
【御本尊は開眼する側であり、開眼されるものではない】
御書の中には、御本尊の開眼については全く述べられていません。なぜなら、大聖人は、「法華経の題ロは一切経の神・一切経の眼目なり」(同一○六○頁)
「今求法に入って、眼とは所謂未曾有の大曼茶羅なり、此の御本尊より外には眼目無きなり」(同八四一頁)と仰せであり、御本尊自体が、仏の眼目であり、魂そのものであるからです。
ゆえに他宗の仏像のような開眼の儀式などは一切、必要ないのです。
宗門は「木絵二像開眼之事』等を引用して、"開眼する前の御本尊は木絵であり、法主の開眼が必要"と躍起になっていますが、この御害は、真言宗が当時行っていた木絵二像(木や画で描かれた仏像)の開眼を痛烈に非難された内容であり、御本尊に開眼が必要などとは、一言も仰せではありません。
そもそも、御本尊が木絵二像であろうはずはなく、「一切経の眼目」である御本尊は、他のものに開眼されるべきものではありません。
さらに、大聖人は『報恩抄』で「天台宗の人人画像木像の開眼の仏事をねらわんがために日本一同に真言宗におちて天台宗は一人もなきなり」と"開眼の仏事"自体を厳に戒められています。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー引用終わり
以上のことから、ご本尊を開眼するなどというのは、事の一念三千、南無妙法蓮華経の御本尊を信じることができない輩の邪見でしょう。
大聖人は、「此の五眼をば法華経を持つ者は自然に相具し候」と述べられています。
我々凡夫における開眼ということですが、それは法華経すなわち御本尊を受持することによって成就されると説いています。
すなわち、一人一人に備わっている仏界の生命を妙法によって湧現し、磨きあげ、もっとも人間らしい人間に成長していくことこそ、個人における開眼となるのでしょう。
◆いつもながら詳細なご教示有り難うございます。
なるほど。確かに「開眼」とは一般に言う「魂入れ」とも考えられます。
逆に「魂抜き」も行われるわけですから「閉眼」もあるべきかもですね。(笑)
ところで前段の趣旨は「仏像でも法華経を持って供養すれば意味がある」とも受け取れますが、実際仏像を拝んでも功徳はあるのでしょうか。
後段の報恩抄では
>"開眼の仏事"自体を厳に戒められています。
と、一見矛盾とも取れそうですが・・・・。
◆日蓮大聖人は釈迦仏像の開眼を伊予房(弟子)に行わせたことも御書に明確に示されています(真間釈迦仏御供養逐状 P.950)。
日蓮大聖人の御本意は下種仏法の顕現にあり、脱益(だっちゃく)の仏である釈尊像を造立するのは誤りのはずである。にもかかわらず、富木常忍が釈迦像を造立したことを許され、しかも喜ばれてさえいるのはなぜかという疑問が生じよう。これについては日寛上人が末法相応抄で明らかにされているので、その御教示にそって意義を明らかにしておこう。
まず、釈尊の像を本尊とすることが大聖人の本意でないとの文証としては、本尊問答抄の御文が挙げられる。
「問うて云く末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答えて云く法華経の題目を以て本尊とすべし」(P.365)、また「問うて云く然らば汝云何ぞ釈迦を以て本尊とせずして法華経の題目を本尊とするや、答う上に挙ぐるところの経釈を見給へ私の義にはあらず釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり」(P.366)と。ここに、本尊とすべきは“法華経の題目”であって釈尊でないことが明白である。
また、二祖日興上人も富士一跡門徒存知の事に「日興が云く、聖人御立の法門に於ては全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可しと即ち御自筆の本尊是なり」(P.1606)と明言されている。
釈尊の像を本尊としない理由として、日寛上人は次の三点を挙げておられる。
第一は色相荘厳の釈尊は、脱益の教主だからである。末法は下種の時であり、下種の仏を本尊としなければならない。熟脱の教主は、在世・正像の衆生を救えても、末法の衆生は救えないのである。
第二は、末法の衆生にとって、主師親三徳の縁が浅いからである。在世・正像の衆生は本已有善で、色相荘厳の仏とすでに縁している。しかし、末法の衆生は本末有善で、色相荘厳の仏とは全く縁していない。ゆえに縁が浅く本尊とはならないのである。
第三に、色相荘厳の仏は人法勝劣で、法に比べてはるかに劣るゆえである。色相荘厳の仏は世情に隋順している仏であり、法に比べれば天地のごとき差がある。下種の本尊は、久遠元初において我が身即妙法と悟られた人法一箇の当体を、そのまま末法今日にあらわされたものであり、すぐれていることはいうまでもない。
このように釈尊の像を本尊としないのは文証・理証から明確であるのに、富木常忍の釈尊造立を喜ばれていることについて、日寛上人は次の三点を挙げられている。
第一は、まだ一宗弘通の初めであり、大聖人の本意にそわないことがあっても許されたのである。最初から種脱相対の深い原理は、富木常忍には理解に無理があり、根本的なあやまりでなければゆるされることもあったのである。阿仏房尼御返事には「軽罪の者をば・せむる時もあるべし・又せめずしてをくも候べし、自然になをる辺あるべし・せめて自他の罪を脱れて・さてゆるすべし」(P.1307)とあり、用捨自在であったことがわかる。
第二は、当時の人々は本尊といえば権教たる阿弥陀経の教主たる阿弥陀仏と思っており、権実雑乱の時であった。そうした時に実経の教主である釈迦像を造ることは、阿弥陀の権教を捨て法華経の実義を立てることであり、その意味では尊いのである。
第三には、富木常忍にとっては釈尊像であったが、大聖人の御境涯からみれば、それはそのまま一念三千即自受用身の本仏だったのである。それゆえに許されたのである。本抄に「己心の一念三千の仏」といわれているのは、まさにこの第三の観見からの仰せになっている。「無始廣劫よりいまだ顕れましまさぬ」といわれているところからも、それは明らかであろう。
「欲令衆生開仏知見乃至然我実成仏已来」の文は、その前の「無始曠劫よりいまだ顕れましまさぬ己心の一念三千の仏」の御文に対応しており、「然我実成仏已来」は無始曠劫無始曠劫すなわち久遠の仏であるということをあらわし「欲令衆生開仏知見」は衆生の己心の一念三千の仏であることをあらわす。
この「一念三千の当体」「久遠元初自受用報身の御生命」をそのまま顕されたのが曼荼羅の御本尊である。しかしその御開顕は佐渡期以後であり、この段階では末だ開顕されていないので、釈迦像を、その意義をもったものとして許されたのである。
「法華経一部御仏の御六根によみ入れまいらせて 生身の教主釈尊になしまいらせてかへりて迎い入れまいらせさせ給へ」
これは開眼の意義を述べられているのである。開眼については木絵二像開眼之事等に示されている。いわく「法華経を心法とさだめて三十一相の木絵の像に印すれば 木絵二像の全体生身の仏なり、草木成仏といへるは是なり」(P.469)と。すなわち、仏の姿として仏像を造立しても、それだけでは31相しか具足していず、仏の声経の最極である法華経を心法として初めて、32相を具足した仏となるのである。草木も一念三千の当体であり、成仏するゆえに仏としての力用をあらわしうるのである。
この、法華経をもって仏像に仏の力用をあらわすのを、開眼というのである。大聖人は、その開眼を富木常忍の義子である伊予房をもって至急行いなさいといわれている。「自身並に子にあらずばいかんがと存じ候」とあるのは、富木常忍自身その子をもって厳護していくべきことを教えられている。
「御所領の堂」のことについて大進阿闍梨が承知しているといわれているのは、内容はわからないが、富木常忍と大聖人のあいだに堂のことについて話し合いがあり、大聖人のお考えについては大進阿闍梨が知っているからとの意ではなかろうか。
富木常忍はかつて大黒を造り、供養した。大黒は福徳の神であることから「其後より世間なげかずしておはするか」といわれたのであろう。こんどは釈尊の像を造立したのである。その功徳は必ずや大海に潮が満ちるように、月が満月になるように、今生において福徳に満ち、また寿命をたもつのみでなく、成仏は疑いないと、釈尊造立をほめたたえ、その功徳がはるかに大きいことを述べられている。
ただし、前述のように、御本尊を顕される以前の段階での御教示であることを忘れてはならない。
◆②が大事だとおもいますよ
第9世日有上人の書物に
「本尊に関する権限は、血脈付法の法主による」
という内容のものがあります。
③も④も、②によって定められている内容だと思いますから、
②が変わらなければ、⑤でも、他の方法でも構わないと思います。
それから「本尊に関する」ということなので、
「下付」も、法主に任命された住職の職務として行われるとおもいますから、
そこのお寺の住職を無視して、他の僧侶が、住職のお寺の信徒に下付することもないと思います。
その叔父さんが
「住職がどこまで猊下に許可されているか」を知らなかったならば、
勘違いすることもあると思います。
◆ちょっと話題がそれますけど、内得信仰との比較からこの問題を考えると案外わかりよいかなと思います。先ほど回答したものにこの内徳信仰への質問に答えたものがありますので付加しておきます。
内徳信仰への質問
日蓮信仰の肝は菩薩道です。
仏は菩薩道によって仏となり、今も仏となり、さらに将来も菩薩道によって人類への仏の法による救済を行っていくという。これが日蓮仏法の骨髄にあるものですから、どのような話であろうと、この菩薩道を見失なっての、行為はあり得ません。
日蓮大聖人御書より
「地湧の菩薩にあらずんば唱え難き題目なり」
ですからその一点から見てみます
--------------
①開眼のない本尊は「魔」。
②本尊の開眼は法主しかできない。
③本尊の開眼は総本山大石寺の『丑寅勤行』のときに行う。
④法主の“内証”は日蓮であり、「唯授一人」の“血脈”が流れている人なので唯一開眼を行う資格を有する。
としてきていますね。
--------------
これを書き直すとこうなります。
============
①仏の誓願である菩薩道への開眼なき本尊は「魔の本尊」である。
②本尊の開眼は法主の菩薩道への決意によってなされる。
③本尊の開眼は総本山大石寺の『広宣流布への決意を込めた丑寅勤行』のときに行う。
④法主の“内証”とは菩薩道に生涯を徹して生きた日蓮そのものであり、「唯授一人」の“血脈”が流れている人なので唯一開眼を行う資格を有する。
==========
という意味になろうかと思います。
この意味において日蓮正宗が真に菩薩道に徹し、広宣流布のためのものとなっているのかどうかが吟味されねばならないところであろうと思います。
①の魔の本尊の定義は菩薩道にたいしてどのような意義を込めて開眼に臨んでいるのかという一点です、日蓮正宗と他の日蓮教団とを分ける唯一の手掛かりはその一点のみです。他の教団は押しなべて布教活動への意志は希薄です。では日蓮正宗ではどうであるのか。
ここで主要な人物は法主です。
法主が広宣流布推進の主体者であることが開眼供養の意義においては欠かせない要件となっています。
②の法主の菩薩道への決意、そして覚悟ですね。その覚悟の次第によって広宣流布の進展は決まる。あれから四半世紀、覚悟は形になったでしょうか。広宣流布は上が掛け声をかけているだけではだめなのです。
広宣流布には二つの意義があります。一つは法体の折伏、もう一つは化義の広宣流布です。日蓮大聖人のご在世当時はまだ本尊が確立してない時代ですからまず本尊を削り出す必要があります。そのために日蓮大聖人は法華経に予言された数々の難をうけて行かれて、その意義の上から本尊をあらわされていかれました。
ご本尊が確立以後の時代は、すでに本尊は存在しているわけですからそれを継承していくことがメインとなります。つまりいくら大聖人と一体と述べても法体の折伏と化義の広布とでは意味がまるで違います。日蓮大聖人が受けたように今の法主にも難を耐え忍ぶべしということにはならないのは確かです。
化義の広宣流布というのはすでに世界広布は完成している、だが修行のためにあえて広宣流布をしていくのだ、と理解して布教活動するのを化義の広宣流布と言います。そのための資料はすべて公表されていますから、誰でもがそれを読んで理解することができようになっています。ですからこれを誰かが管理して特殊な承認を必要とするようなことはありません。パイプを流れる水のように広宣流布を進めていくだけです。
④の法主のに開眼を有する資格があるというのは、その広宣流布への責任感において一切の責任を担って立ち、先頭を切って旗を振り、信徒が法難にあったなら体を張ってこれを守るという固い決意を示すことによって日蓮大聖人と同格であると自負することができるということになります。
ただご本尊の開眼供養をしました、それが法主の仕事ですだけでは済まないのが日蓮仏法の厳しさです。
そのように理解して読むと、
>(⑤)法主の允可・指示があれば末寺の住職でも開眼できる。
(「允可」は許可のことで「いんか」と読むようです)
はいささか、手続きだけについてのべられているように見えて、それが何か?とあえて問いたくなるような事柄のように思えます。
それに意義を含ませるとするならば、末寺僧侶も広宣流布への決意、菩薩道への覚悟はできているか、を問うことで一切が決まるような気がします。
ようするにどういう決意でいるか、ですね。
◆私は日蓮正宗信徒の者だ。
私は「末寺で『開眼供養』出来るなどとは一言も言っていない。
ただ末寺で、
総本山大石寺の御指示や御允可により、御本尊様の発行に携われた事があったと云うだけである。
『開眼供養』が出来るのは、
日蓮大聖人様か、
日蓮正宗総本山大石寺客殿の、
丑寅勤行の時のみである。
全く読解力の無い悩乱者が。
人の発言まで勝手に捏造するな。
◆確かに5は都合のいい解釈で、御書には書いてないですね。


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【効果抜群】山口達也ネタは午前中で終わり午後から野球ネタが始まるんじゃないん...

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山口達也ネタは午前中で終わり午後から野球ネタが始まるんじゃないんでしょうか

アンサー

午後からは角野卓造ネタだったと思います。


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【診断】今年もやって参りました。 新潟直千。(`・ω・´)ゞ グランシェリー...

今年もやって参りました。 新潟直千。(`・ω・´)ゞ グランシェリー...

今年もやって参りました。
新潟直千。(`・ω・´)ゞ
グランシェリーですか?
ブラックバードですか?(・_・?)
【細く補足】
GWは最初から最後までご丁寧に日中も仕事なので全 く観れません。(´・c_・`)

アンサー

mikoちわ( ^∀^)ノ♪な?んもピラメかんから、グランシェリーにスペチアーレ、西田のオサーンでも絡めて遊ぶわさ。


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【緊急版】ミュージカル男女デュエット曲募集 今度とある場で発表するのに、ミュ...

ミュージカル男女デュエット曲募集 今度とある場で発表するのに、ミュ...

ミュージカル男女デュエット曲募集
今度とある場で発表するのに、ミュージカルの男女デュエット曲を探しています。
候補としてあがったもの・イメージが近いものとしては、モーツァルトの 「愛していれば分かりあえる」、マンマミーアの「lay all your love on me」、ミー&マイガールの「ミー&マイガール」などです。
できれば女性側が力強いor可愛らしいなど、綺麗にしっとり歌い上げる感じではない曲を探しています…!また、雰囲気明るめの曲の方が良いです!
検索したり、色々と調べているのですが、そもそも知っている作品の数が少ないため、是非ミュージカルが好きな方々のお知恵をお借りできたらと思い投稿しました。
できることなら上の条件に合うものが良いのですが、ミュージカルの男女デュエット曲で思いつくものを、なんでも、とにかくたくさん!あげてくださると嬉しいです。よろしくお願いします。

アンサー

『スウィーニー・トッド』の「Kiss Me」
唯月ふうか(momo)はボーカル音源をリアルに超えています。
日本ミュージカル界No.1の屈指の歌唱力を誇る濱田めぐみや田代万里生
とも互角に渡り合う圧倒的な歌唱力の女性アイドルが唯月ふうかです。
唯月ふうかは他の女性アイドルの子達とは格も次元も圧倒的に違います。
Momo(Fuka Yuzuki) is the cutest thing ever!
And her voice is amazing! The perfect idol.
アンソニー as 田代万里生がジョアンナ as 唯月ふうかに告白
唯月ふうか(momo)はスターダストアイドル最強のZ戦士の
スーパーエースであり、スターダストとホリプロが獲り合って
ウルトラC(前例のない複雑な裏事情のある実質ホリプロの引き抜き強奪)
でホリプロ入りした芸能史上唯一無二の超特別な子。
こんな子は他に居ない。唯一無二の天上アイドル。
今、最も生で観るべきスーパーアイドルアーティストスターが唯月ふうか
唯月ふうかは歌唱力も演技力もダンス力も可愛さも圧倒的。断トツ。
本来、唯月ふうかはミュージカル舞台女優限定ではなく、
歌手を筆頭に女優、声優、アイドル、MCなど超ハイレベルにマルチに
大活躍可能な資質を持っており、ジャンル分けなど無意味な
芸能史上唯一無二のスーパーアイドルアーティストスターだ。
それを阻害してしまっている制約隠蔽NG状態大反対!
実質ホリプロの引き抜き強奪の裏事情および引き抜き強奪した
ホリプロ(音事協)と引き抜き強奪されたスタダ(非音事協、音制連)の
両事務所、両陣営のプライドの問題も相まって唯月ふうか(momo)の
スタダ関係を表に出す事がNGの制約隠蔽NG状態にされてしまっている。
そのせいで彼女の芸能活動は常にスタダ関係の制約NGを抱える
大ハンデを被ってしまっているのだ。このせいで歌手活動再開や
様々なキャスティング等でも非常に不利で窮屈な勿体ない状況。
彼女がスタダ時代の曲を商業的に歌えないとか、ももクロ等と直接絡めず
共演NGとかもってのほかだ。
ももクロ等にとって唯月ふうかはふ~かふ~かな雲の上♪の存在(桃神様)
唯月ふうかはスター。ももクロはダスト。合わせてスターダスト。
愛と哀しみを知る唯月ふうかはスターダストアイドル最強のZ戦士!
JASRACに使用料を払えばスタダ時代の曲も商業的に普通に歌える。
手続きを踏めば彼女のイメージぴったりで海外でも覚えて貰い易い
momo名義も復活可能! 早く彼女のスタダ関係の制約隠蔽NGの無い
自由な芸能活動&自由な歌手活動再開を!
裏事情はもう時効だ。ホリプロとスタダで早く合意して早く解決すべき。
ホリプロ(音事協)は彼女のスタダ関係を隠蔽NGにしている場合ではない!
制約隠蔽NG状態大反対!
唯月ふうか(momo)の日本発世界初演ミュージカル5作品
◆昔、ミュージカルをしていた者です。
ディズニー映画の中から探してみてはどうですか?
アラジン、美女と野獣、眠れる森の美女、など、ミュージカル音楽が多いですよ。
◆サウンドオブミュージック:「もうすぐ17歳」「何かよいこと」


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【ネット】江波杏子って、鼻の穴大きいですよね? 大奥を見て、とても感じました。

江波杏子って、鼻の穴大きいですよね? 大奥を見て、とても感じました。

江波杏子って、鼻の穴大きいですよね?
大奥を見て、とても感じました。

アンサー

江波杏子なんて久しぶりに聴いた名前。
好きだわー、冷たそうで(笑)。
あの声が何とも言えず、顔に合ってて。
ワタシは江波杏子と馬渕晴子の区別がつかなかったなー、ある時期。
馬渕晴子。声も似てるからさー。

ここに宇津宮雅代の声を入れると、もはや「怖い声の3人衆」が出来上がり。
宇津宮雅代。鼻はこの人が一番目立つね。

◆おっしゃるとおりです!
加齢すると大きくなるようですね、笑


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【究極】ゆずの「カナリヤ」という曲。 なんか別の曲に似ている気がするのです...

ゆずの「カナリヤ」という曲。 なんか別の曲に似ている気がするのです...

ゆずの「カナリヤ」という曲。 なんか別の曲に似ている気がするのですが、思い出せません

アンサー

だいぶ前の曲ですが、おかあさんといっしょの「あしたははれる」の冒頭部分が「カナリア」のサビに似てるとなんとなく感じました。違うと感じたら申し訳ないです…。子供の頃、茂森あゆみさんが卒業するときに聞いた曲なので印象に残っていました。まあ、ゆずは好きなので良い曲だとは思いますよ!


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-本山力
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